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宅間守鑑定医が語る「人格障害とは何か」

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(Yahoo!ニュース「創」・08/04)

宅間守精神鑑定書の刊行がもたらした反響

 2013年5月下旬に出版された『宅間守精神鑑定書』(亜紀書房刊)が大きな反響を呼んだ。著者は元京都府立洛南病院の院長だった岡江晃さんだ。1972年から洛南病院で精神科医を務め、92年から刑事事件の精神鑑定を担当するようになった。この本を出版した時は同病院を辞めて他の病院に勤務していたが、その後、がんのために亡くなってしまう。
 宅間守(以下敬称略)による池田小事件が起きたのは2001年6月8日のことだ。出刃包丁を持って小学校に押し入り、無差別に児童や教師を殺傷した。小学1・2年生の児童8人が刺殺されるという事件は日本中に衝撃を与えた。
 宅間守には03年8月、大阪地裁にて死刑判決がくだされ、弁護団が控訴したが、本人が取り下げて死刑を確定させた。死を覚悟して児童を道連れにし、社会への復讐も遂げたという宅間は、確定後、早く刑が執行されることを望み、04年9月、約1年という異例の早さで死刑が執行された。
 死刑確定後も、被害者遺族に謝罪するどころか、ガソリンを使えばもっと大量の児童を殺せたとうそぶくなど、最期まで社会への憎悪を吐露して死んでいった宅間守の手紙は本誌でも掲載したし、その宅間を救いたいと獄中結婚をした女性の手記なども掲載した。
宅間守の精神鑑定にあたった岡江さんが出版した鑑定書は400ページ超える大部のもので、宅間が鑑定時に語った犯行の状況なども収録され、興味深い内容だ。この本が話題になり、売れたのは、やはり宅間守という人物のパーソナリティに対する興味が多くの人にあるからだろう。反社会性人格障害と診断された宅間は、以前から何度も精神科に通院ないし入院もしていたのだが、それがあの事件を防ぐことにはならなかった。鑑定書ではこんなふうに書かれている。
《以上の言動や対人関係の背後にあるのは、説明するまでもなく際立った情性欠如であると言わざるを得ない。空想癖や虚言癖がある。共感性もない。自己中心性、攻撃性、衝動性は顕著である。
 鑑定時にも情勢欠如を強く感じる。本件犯行を「ブスブス事件」と表現し、一言で言えば反省、悔悟、苦悩の念は全く感じられない》
 こういう反社会性人格障害とされる人物に対して、凶悪な事件を予防するために社会は何をなし得るのか。あるいは精神医療は有効な手立てを持ち得るのか。そういう疑問を含め、2013年夏に行った岡江さんへのインタビューを改めて公開する。(編集部)


──『宅間守精神鑑定書』をそもそも出版しようと考えたのは何がきっかけだったのですか。

岡江 2002年に鑑定した当時は出版するなんて全く念頭になく、いずれ出したいと思ったのは数年ぐらい前です。
 理由としていちばん大きいのは医療観察法。この法自体が池田小事件をきっかけにして出来た、と枕詞のように語られますが、法律が成立して以降、厚労省による監査時に、私は精神科医として医療観察法の入院病棟での診察を去年まで担当していたんです。
 法律が実際に動き出して、賛否両論ありますが、今までとは違う治療が進んでいく中で、やっぱり宅間の鑑定に関する本は出した方がいいんじゃないかと思うようになりました。
 出版には相当躊躇(ちゅうちょ)しました。そもそもこういう本が10年ぐらい前からぱったり出なくなっているんですね。実は鑑定書の扱いは決まりがなくて、昔は裁判所か鑑定人か、どちらに属するか議論になった時期もあったらしいですが、結局はっきりしてないんです。
 ところが、おそらく宮勤の事件を最後に、事件が特定できる鑑定書は出版されていません。それまで戦後の大きな事件、例えば金閣寺の放火事件などは全部、鑑定書の中身が本になっています。有名な事件5~6件の鑑定書を丸ごと収録した鑑定集で、専門書とはいえ誰でも買うことができました。
 精神科医にとっては、普段の臨床なら時間をかけないところも鑑定なら非常に深く調べたり考えたりするので、鑑定書というのは勉強になる。読むと結構、役に立つんですね。それが10年前からぱったり出されなくなりました。
 私はその原因は、個人情報保護法だと思っています。この法律ができたあたりから、医療の現場には極端な事態が起きていて、外来で名前を呼んではいけなくなったり、病室の入り口に入院患者の名前を書くのもダメになった。尼崎の列車事故で大勢が亡くなった時、マスコミの問い合わせに病院は入院しているかどうかすら答えませんでした。
 奈良の少年事件で、調書をそのまま出した『僕はパパを殺すことに決めた』は刑事事件に発展しました。鑑定した医師は、鑑定行為は医療行為ではないから、医師の守秘義務に該当しないと主張していましたが、去年の最高裁判決は鑑定でも守秘義務はあると結論づけました。この判決もあり、今回の出版には本当に迷ったんです。
 でも、日本の精神医療が良くも悪くも大きく舵(かじ)を切る引き金になった事件について、精神科医から見た像が全く残されないでいいのかという思いがあったのです。

──出版して、精神医療の世界の反応はいかがですか。

岡江 知り合いはよかったと言ってくれますが、全体はわかりません。新聞記者の人に聞くと、有名な司法精神医学の精神科医は「時期尚早だ」とコメントしていたみたいです。50年前の事件なら、もう歴史の一部になっているかもしれないけれど、池田小事件はまだ10年だから、ということでしょうね。ただ、ある精神医学会で宅間の鑑定について話してほしいという依頼も受けています。



宅間守は人格障害のなかでも特異なケース

 ──鑑定した当時のことをお聞きしたいのですが、宅間を鑑定した印象はどんなものだったのでしょうか。

岡江 鑑定をする前は、マスコミ報道を通して宅間は統合失調症かなと漠然と感じていました。ところが、実際に鑑定で面接してみると、印象が大きく変わった。宅間の話に「非健康的な精神構造」という言葉がしばしば出てきて、ある時、それは具体的にどういうことを指すのか質問したんです。すると、宅間は即座に「自分は愉快犯的なところがある」「嫌なことがあると頭にこびりついて離れない」「強姦されている女性の痛みなんか全然わからない。共感性がないんだ」と言うんですね。「共感性」という言葉を自分で使うんですよ。
 これを聞いた時は驚きました。彼はハタチ過ぎに、少年刑務所にいた時に統合失調症の本を読んで、共感性がない点が自分に似ていると感じたようです。高校の時に反省文を書いたり、21~22歳の時に少年刑務所から父親に手紙を出しているんですが、内容を見ると、自分のことを客観的に見れているんです。
 自分はこういうつもりはないけれど、今まで迷惑をかけてきたから、こういうことをすればこういうふうに受け取られるだろう、と。自分のことをわかっているのです。それなのに、なぜ犯行を止められなかったのかなぁと思います。
 裁判の証人に呼ばれた時、「彼を治す方法はありますか」と訊かれました。私は、仮に宅間のような人が診察に来たら、本人の行動や考えにどんな問題があるのかを自覚してもらうことが大事だと思っています。自分のしていることが周囲に迷惑をかけている自覚のないことが、人格障害の人たちの問題なんです。だから、そこを自覚してもらうのがいちばん大事なんですが、宅間はそこがある程度わかっているように見えたんですよ。
 自覚があるのに変われない。そうなると、どうすれば犯罪を防げたかといっても、ほとんど答えがない。宅間については「こうすればいいという手がかりがない」という答えをした記憶があります。


──岡江さんから見て、宅間は人格障害の中でも特異だったんでしょうか。

岡江 異例のケースです。診断についても異例で、発達障害の広い範囲のどこに当てはまるかわかりません。発達障害はアスペルガーから自閉症、学習障害、多動性障害などの全部を含んだ広い概念がありますが、宅間の場合はどこにも当てはまらない。しかし、どこかその中にいるはずで、極めて特異なケースじゃないかと思います。
 例えば、宅間は常に何かひどい問題を起こしているように見えますが、2回目の結婚生活を送っていた数年間は平穏で、大した問題も起こしていないのです。2番目の奥さんに対して、結婚している間は一切暴力もなく、励まされたり、なだめられたりして我慢しながら仕事もやっていたんです。仕事をクビにならないよう努力したり、問題を起こすことなく暮らしていました。また、1年足らずながら、自衛隊にいる時も問題は起こしていません。
 私が感じたのは、宅間は、ある枠組ができている中では生きやすかったのではないかと。極端な話ですが、彼が戦前の日本のような社会にいたら、もしかしたらこんなふうにならなかったかもしれない、と法廷でも証言しました。枠内で価値観が決まっていて、こうあるべきみたいな社会だと意外と生きやすかったかもしれない、と思いました。

 鑑定は厳戒態勢の下に行われて、いつでも刑務官が鑑定をしている室内に踏み込めるよう、ドアがごく少し開いたままで扉の外に刑務官が控えていました。これは今までになかったことです。病院で検査を行う時も、外来のない土曜を選んで、搬送ルートなどのチェックのため、事前に病院の見取り図を求められたほどです。
 宅間は法廷で遺族に攻撃的な態度を見せたりしていたので、拘置所側は警戒していたんでしょうけれど、鑑定中に暴れたり反抗したりすることは全くありませんでした。これも、秩序には従う宅間の習性を示しているかもしれません。法廷でいくら喚(わめ)いても追い出されるだけですが、拘置所では具体的に懲罰をくらう。そういうことがわかっているんだなぁと思います。
 元々、宅間は色々喋(しゃべ)りたかったから、言いたいことを言える鑑定の面接を待っていたとも思うんです。宅間は変な話、親しみというと表現が適切ではないけれど、相手の気持ちが分かっているような印象をこちらに与えるんです。それは私が極端に感じたわけではなくて、宅間が見合いパーティーなどで女性にもてたりするのはそこがあるからだと思います。最初から変な人ならそんなことはない。女性たちの証言にも「最初はすごくいい人だと思った」という言葉が結構あります。
 鑑定という特殊な場面だったからではなくて、普段から場合によっては相手に何か親しみを感じさせるようなところが宅間にはあったんだと思います。

──鑑定の段階で責任能力の有無が問題になりましたか。

岡江 最初の1~2回の面接で、他の医者もみんな「統合失調症ではない」と意見が一致しました。だから最初から責任能力が問題になることはありませんでした。


──統合失調症は薬を使った治療が一般的かと思いますが、人格障害はどうやって治療していくんでしょうか。

岡江 統合失調症だって薬は対症療法で、根本的に治せるわけではありません。あくまで再発を防いだり、症状を小さくするだけです。宅間も統合失調症に使う薬で効果があって、ぴりぴりした感じが和らぐのは確かだったと思います。
 人格障害はすごく幅が広いのですが、病気に近いようなタイプで、症状を自覚している人には補助的に薬は使えます。「治しようがない」というわけではありません。
 精神科の患者で最も多いのは、「境界性人格障害」です。WHOは「情緒不安定性人格障害」、アメリカの診断では「境界性人格障害」と呼ばれています。この場合、アメリカの論文を見ても、10年ぐらいすると半分以上の人が改善して、安定した社会生活を送れているんです。そして、それは精神科の治療というよりも社会経験の中で安定していくのではないか、とある論文は指摘していました。
 私自身の経験でも、社会経験を重ねていくと、リストカットを繰り返したり、家族に迷惑をかけるのがだいぶおさまってくるんです。だから、人格障害が治らないというのは間違い。社会適応がよくなっていく人はいますし、その間に精神科医が関与して行動が和らげられるということはあります。
 一方で、重い犯罪を平気で繰り返すような人は「反社会性人格障害」と診断されますが、そういう人はおそらく精神科に来ませんよね。妄想を抱いているけれど全く病気と思っていない「妄想性人格障害」の人も、絶対来ないと思う。前提として本人が治療を求めないと治療は始まりませんが、求めてこない人はたくさんいるんです。


人格障害の概念は非常に幅広い

ー──人格障害の定義はすごく曖昧(あいまい)に感じます。

岡江 人格障害の概念は非常に幅広くて、病気に近いものから人格そのもの、さらには発達障害もあり、3つが混在しています。児童精神科の人たちは、広汎性発達障害やアスペルガーの延長線上のものを人格障害と誤って診断していないかと主張していて、拡大診断なのか見落としなのか、かなり大きな話題になっています。宅間の鑑定をした10年前は、ちょうどそういった議論が出始めたころで、今なら鑑定書の書き方も違ったかもしれません。
 宅間の鑑定の際、念頭にあったのは私が直接関与した2つの事件でした。一つは佐賀県のバスジャック事件です。国立病院の精神科に入院中の少年が起こした事件だったから、精神科の団体が集まって調査したんですが、議論の中で「広汎性発達障害を見落としていたんじゃないか」と言う人がかなりいました。彼の主治医は児童精神科医で、広汎性発達障害とは診断していなかったんですけれど、資料を調べた結果、広汎性発達障害じゃないかという意見も出たのです。
 それと、ちょうど池田小事件の1年前に、宅間に非常に似た人を鑑定したことがありました。子供の頃から問題を起こしていて、別れた奥さんの親族を勤め先の銀行まで押しかけていって喚き散らして追い詰める。最後には、逃げた交際相手の子供がいる集団登校の列に車で突っ込んで、全く関係ない1人を死なせてしまった。少年時代に医療少年院に入っていた頃の資料などをみて、ひょっとしたら広汎性発達障害ではないか、と考えて児童精神科医に相談したこともあったのです。
 この2つがあったので、私の頭には広汎性発達障害がずっとあったわけです。当時は、子供を見ている人以外はおそらく人格障害だけで終わったと思うし、起訴前の鑑定人も人格障害とだけ書いています。先の2つの経験がなければ、私も特定できないけれど変な発達障害がありそうなんてことは、多分書かなかったでしょうね。


 池田小事件を防ぐことはできなかったのか

──池田小事件の再発を防ぐためには、宅間のような人に対して、どう対応すればいいんでしょうか。

岡江 それは相当難しいことだと思います。ある意味で、私はあきらめている部分もある。宅間の場合は通院もしていたのに、事件は起きた。それを何かをして防げたかと言うと、難しいと思います。 最後に2年間主治医だった先生に対して、宅間は利用している反面、頼っている面もあったんです。医者からすれば、社会的な問題を起こす人でも、自分に頼ってくれれば何とか防げるチャンスはあるんです。宅間は事件直前まで入院するかどうか迷っていて、SOSを出す素振りはあった。そうすると、医者はいよいよ危機的な状況になれば頼ってくれるのではないかと思う。しかし、結果的にはそうならなかったので、事件を未然に防ぐのはなかなか難しかったんじゃないかと思います。
 主治医によると、宅間には本当に事件を起こしそうな切迫感がなかったようなんです。ぶっ殺してやるとか言っても実感として伝わってこない。証人尋問でも同じようなことを訊かれましたが、事件を防げる精神科医は1万人に1人ぐらいならいるかもしれないと答えました。
 有史以来、人間は一定の割合で凶悪な事件を起こしてきました。世界的に見ても、社会情勢によって多くなったり少なくなったりはするけれど、ゼロになったことはないわけです。DNAに刻印されている人が一定程度生まれてくるのは、そう簡単に何ともならない。ただ、時代によって増減があるから、少しでも減らす努力に可能性はあると思います。
 それと、発達にかなり偏りや問題がある子供に対する教育をきちんとすれば、ひょっとしたら少し変わるかもしれません。宅間も、広汎性発達障害に該当するかわかりませんが、子供の時から非常に歪みがあったのは事実ですから。
 宅間は幼稚園の頃から、授業中はおとなしく座っているけれど、その他の時間は女の子をいじめたり嫌がらせをしたりして、クラスでも目立つ存在でした。今なら発達支援法の中で、宅間のような子も教育的な支援の対象にしようとするんじゃないかと思います。でも、子供のことですから、親の協力がないと基本的にできないでしょう。
 私は鑑定の際に父親に会いませんでしたが、父親が非常にワンマンで問題のある家庭だっただろうと思います。母親についても、家事をちゃんとしない、宅間の下着が汚れたら新しいのを買って古いのは捨ててしまうとか、母性愛の乏しい人だったように推測します。宅間がそういった家庭環境の影響をかなり受けたことは間違いないでしょう。ただ、例えば当時、今のように発達障害の子供に対する教育が少し進歩している状況にあったとしても、宅間の両親は協力しなかったかもしれません。
 ただ、少なくとも長い目で池田小のような事件を防いでいこう、減らしていこうと考えると、教育は一つのポイントになるのではないかと思います。幼児期からの教育的な配慮が、長い目では意味を持ってくるかもしれません。


 精神鑑定と責任能力をめぐって思うこと

──精神鑑定と責任能力についての議論で何か考えられていることはありますか。

岡江 今の裁判は、その程度が重度や中等度の統合失調症の人たちに責任を問いすぎているんじゃないでしょうか。統合失調症は重い病気ですから、無罪にしたり減軽したりして、もう少し罰ではなく医療の方に回すべきなのではないかと思います。
 責任能力という概念は、統合失調症を中心にして考え方ができあがってきました。知恵遅れとアルコール依存の問題もありますが、責任能力を無能力にしましょうというのは統合失調症から来ているんです。統合失調症の患者はいずれ廃人になるから責任を問うのは無理でしょう、という100年前のドイツの学者が言ったことが基本になっていて、そこから責任無能力という考え方が生まれてきました。 
 ところが、その後、だんだん統合失調症の診断の幅が広がり、病気の程度が軽度で、治る人も出てくるわけです。みんなが廃人になるわけではないとなると、全部を無能力とみなすのはおかしいんじゃないかということになってきたのです。
 いずれにしても統合失調症についての責任能力の考え方が定まっていないと、他の疾患についての責任能力の問題を議論するのは難しいと思うんです。ここがぐらついたり、鑑定人によって幅が色々変わってしまうと困ります。
 今はさらに、発達障害という概念も出てきて、統合失調症との境界が曖昧(あいまい)になり、よけい話がややこしくなっています。私は鑑定する側も判決を下す側も、もう少し統合失調症の診断と責任能力の考え方の振れ幅を狭くしないといけないと思っています。
 私は統合失調症の重い人は絶対に無罪にすべきと思う一方で、非常に軽症な人は、完全に責任をとるべきだと思っているんです。そうしないと整合性がとれません。

 極端に言えば、統合失調症と判断すると有罪にしにくいからと言って、統合失調症の可能性があるのに、わざと人格障害と判断して有罪にするような変なことも起こってしまいかねない。だから、統合失調症でも人としてしっかりしたところがある人は、普通の人並みに責任を取ってもらうという考え方がいいんじゃないでしょうか。
 もう少し言うと、統合失調症のあるタイプの人と、人格障害の中でも統合失調症に近い人格障害の人は、どちらとも診断できるぐらい、本当に紙一重です。それが裁判になると、人格障害と鑑定してもらった方が判決が下しやすくなり、変な使われ方をしてしまう。
 だから、どちらの診断でもいいけれど、非常に症状が軽い人は責任を取るという方がいいと私は思っています。統合失調症のいちばん端っこの軽い人なのか、人格障害のいちばん統合失調症よりの「統合失調型人格障害」なのかというような診断の争いをするよりも、社会的なことができるんだから責任を問いましょうという方がすっきりしていないでしょうか。
(『創』2013年9・10月合併号より)

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