記事一覧

病気って何?「大人の精神科医」が発達障害の概念を受け入れるまで

170624-1.jpg

(Yahoo!ニュース「現代ビジネス」・08/24)

「発達障害」に対する警戒と不信
 この数年、「発達障害」という言葉を耳にすることが増えた。

 ADHD(Attention Deficit and Hyperactivity Disorder:注意欠如多動性障害)の小児期における有病率が5~10%、成人でも3~5%に達すると聞かされると、その多さに衝撃を受けざるをえない。

 この「病気」についての説明が世間ではますます語られるようになっており、単に教育の分野の問題を超えて、ビジネスシーンでの人間関係においても考慮せざるをえない状況が生じつつある。

 「本当に、それは病気なのだろうか? というのは、当然生じる疑問である。

 そもそも子供は、授業を落ち着いて聞くことができずに、走り回っているのが普通である。苦労して躾(しつけ)を行うから、きちんとした礼儀正しい振る舞いが、社会的な場面でできるようになるのだ。

 それをいちいち病気扱いして薬を飲ませようとするのは、悪徳の医者と製薬会社が金儲けをするための陰謀なのではないだろか、そんなことを考える人もいるだろう。

 別の人は、こんな風に思うかもしれない。そんなに数が多いのならば、ひょっとしたら自分の身近な人、こちらの言うことを聞かないでミスばっかりしている後輩も「発達障害」に違いない。

 組織の批判ばかりしているあの人は、きっと衝動的で多動、そして「空気が読めず」「他の人の心が分からない」からああなるのであって、病気なのだ。

 そうやって社会や組織に都合が悪い人のことを、病気であるとレッテルを貼って排除したい勢力が世の中には存在する。その人たちが目指す社会の管理化の進展に、精神医学が共謀しているのに違いがない、といった考えも浮かんでくる。

 実は私自身、成人の患者を担当する普通の精神科医として、突然に高まったように感じられた「発達障害」のブームについて、上のように考えて警戒するところがあった。

 そもそも、「小児科」が「内科」から分かれて独立していったように、「児童精神科」が「精神科」から独立しつつある。したがって一般の精神科医にとっても、「発達障害」は近いけれども、少し専門を外れた話と感じられていた。

 しかし近年の流行を見ると、そんなことは言っていられなくなってきた。しっかりと勉強をして、きちんとした自分の態度を決定しなければならない。

 そんな中で、最初は相当の不信感を持っていたのだが、この数年は「発達障害」の概念を認めた上で、必要とされる治療的な介入をしっかりと行っていくべきであるという風に自分の考えが変わってきた。

 今回は、この結論に至る自分の考えの変遷を示すことで、私のように警戒心の強い人でも、「発達障害」の概念についてさらに踏み込んで考える機会になってほしいと考えて小文を執筆している。


精神疾患の爆発的流行
 世界の精神医学の動向に大きな影響を与えている書物に、アメリカ精神医学会が発行している『DSM(Diagnostic and Statistical Manual of mental disorders:精神障害の診断と統計マニュアル)』という本があり、最新版は2013年5月に発表された第5版である。

 先の『DSM』第4版が作成されるに当たっては、診断基準を改定する作業が一部の専門家の意見のみを反映することにならないように、広く科学的な文献を確認し、その内容を精査した上で、作成された新しい障害の診断基準案を選ばれた施設で適切に施行した結果を確認し、その後に正式に決定するという手順が取られた。

 第5版の作成においては、第4版の作成作業と比べて、今までの研究成果の集積であるデータを確認する作業が軽視され、その代わりに近年の神経科学や遺伝学の成果を取り込んだ上で精神障害の分類の「パラダイムシフトを行う」という目標が強調された。

 この第5版について、『DSM』第4版の作成委員長であったアレン・フランセスが厳しい批判を行っている。その主張がまとめられた著作が『<正常>を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告(Saving Normal)』(2013年、講談社)である。

 そもそもアレン・フランセスは、自身が関わった『DSM-4』においても、精神障害の「インフレ」――つまり疾患概念が拡大して「正常」とみなすことが可能な人々のことも病気と診断してしまう過剰診断のリスク――を、十分に防ぐことができなかったと振り返っている。

 「精神疾患の爆発的流行は過去15年間に4度あった。小児の双極性障害(躁うつ病)は、信じがたいことに四〇倍に増えた。自閉症はなんと二〇倍に増えた。注意欠陥・多動性障害は三倍になった。成人の双極性障害は倍増した」(同書175・176ページ)という衝撃的な指摘がなされている。

 この場合には、「今まで見落とされていた人々が、学問の進歩によって適切に発見されて治療を受けられるようになった」以外の要因も、想定されるのではないだろうか。

 アレン・フランセスは、製薬会社の売り上げが増えたことを強い調子で批判し、その一方で精神療法の実践が十分に行われていないことについても注意を呼び掛けている。

 そのような『DSM-4』の問題を踏まえるならば、『DSM-5』の作成はもっと堅実に行われるべきであったのに、そうはならなかった。

 精神科医の側の、精神医学を大胆に改革したいという野心の強さが、その作成プロセスを不注意なものとしたという厳しい批判が行われている。

 今後、『DSM-5』が実臨床にさらに浸透していった場合に、過剰診断が行われる可能性がある「病気」として、「精神疾患に変えられる癇癪」「病気になる年寄りの物忘れ」「精神病になる大食い」「『本日のおすすめ診断』になりかねない成人注意欠陥・多動性障害」「うつ病と混同される喪」「嗜癖(しへき)にされる熱中」「インターネット嗜癖」「精神疾患の誤ったレッテルを貼られる内科疾患」などのカテゴリーが挙げられている。


「発達障害」の観点が、問題解決につながる
 ここまで紹介したような批判を読む限り、「発達障害」の診断はもっと慎重に行うべきではないだろうか、という気持ちになってくる。

 実際に少し前までは、「社会と個人の相互作用によって発達する人間関係にまつわる情緒の問題(ナルシシズムの成熟不全など)を、全て先天的、もしくは発達早期の脳や神経の身体的な原因に帰着させる発達障害の議論は、非常によろしくない」と考えていたのが、私の本音であった。

 そのような見方が変わってきたのは、実際に「発達障害」の臨床の場面で、良質の治療実践を行ってきた医師・福祉や療養の関係者・教師、母親などの保護者、そして当事者である本人に触れる機会が増えたからだ。

 まだ腹の底は見えないものの、とりあえず現状でお会いする製薬会社の方々も、安易な薬の処方だけでは弊害が大きく、適切な心理的かつ社会的な介入を行うことが重要であることを伝えてくれている。

 こんなことは考えられないだろうか。

 つい20~30年くらい前であるならば、落ち着いて授業を聞かない生徒に対しては、教師が体罰等を行使して従わせることも、ある程度は黙認されていた。しかし、昨今の社会情勢の中で、そのような強権的な振る舞いを行う権威は、教師たちには認められなくなった。

 当然、純粋に授業の面白さだけで生徒たちをひきつけねばならなくなったが、必ずしも毎回、それがうまくいくわけではない。そもそも、子どもたちの規則的な生活習慣も以前より乱れており、授業に集中するための体力も低下してきている。当然、まじめに授業を聞かない子も増えただろう。

 ここで、教師が強権的な授業運営を行うことを許容する議論が強まってほしいとは思わない。

 このような場面で、「発達障害」の観点が、問題解決のために関係者が共有できる視点を提供し始めている。

 たとえば、発達障害の臨床では、患児の知能検査の結果が重視される。単純に知能指数がいくつかという数字にのみ着目するのではなく、「知的能力のうち、どのような領域が得意であり、どのような領域が不得意であるのか」という評価を行った上で、本人が理解できるような伝え方を工夫するという方向性が強まっている。

 決して、安易に「本人が病気だから、伝わらないのは仕方がない」という結論にはならないし、患児や保護者の弱点について、道徳的な観点からの批判を行うことは避けられている。

 発達障害については、二次障害と呼ばれる問題を予防することが、大変に重要な目的とされている。対人関係や社会的な場への参入の仕方に問題がある個人の場合には、人と接した経験がトラウマ的なものになりやすい。

 そのことがさらに人と接する状況での振る舞いを不器用にさせ、それがさらに失敗を誘発し、社会的な場からますます遠ざかるようになる。そのような悪循環が高じて、何年も満足の行く社会的な関係を持てないまま生きていかざるをえない人々も、世の中には一定数存在しているのである。

 その場合には、良質な愛着を他人との間に育むことが困難になっていくし、その結果としてさまざまな情緒的な問題や行動上の異常が出現しやすくなる。そのような状況にある多くの人々が、現在も放置されているおそれがある。

 ひょっとしたら、その個人の問題を説明できるのは「発達障害」の理論だけではないかもしれない。しかし、関係者の多くが共有可能で、現在も学問的な検証が続けられている「発達障害」の説明を採用することには、実践的な魅力がある。


逆の極端を警戒する
 先に紹介したアレン・フランセスは、次のようなことも述べている。精神科における過剰診断を戒める書物を書くことには、躊躇もあったという。

 「私の発言はすでに、精神医学に強硬に反対するサイエントロジーやそのほかの団体によって、誤解を招きかねない形で広く引用されている。本書も同様に、これらの団体に乱用され、助けを大いに必要としている人が助けを得るのを阻む目的で使われるおそれがある」

 「私にとって悪夢のシナリオは、一部の人が都合のいい読み方をして、私が精神科の診断と治療に反対しているという、本書の内容にも意図にもまったく反した結論を引き出すことだ」といったことを、明確に述べている。

 臨床にかかわる人が注意して避けねばならない、二種類の間違いがある。

 一つは、治療するべきでない人にまで、安易に治療の対象を広げてしまうことだ。もう一つは、治療によって利益をえる可能性が高い人についてまで、適切な介入を行うことを控えてしまうことだ。この二つを避けながら治療実践を継続することが、臨床医には求められている。

 たとえばADHDについてならば、現状は子どもの5~10%が該当するように診断基準が定められていると考えた上で、その診断を、何らかの援助が必要な子どもたちの問題に介入するための、きっかけが与えられたと受け止めればよいのではないだろうか。

 以前はよく、他の学問と比べて、精神医学の拠って立つ基盤がずいぶんと根拠薄弱なものに感じられて、悲観的な気分になることがあった。

 しかし、次に紹介する科学史家のトマス・クーンの言葉を知ってから、自分がやっていることに以前よりも安心することができるようになった。

 「われわれはみな、科学を、自然が前もって設定したある目標に常に進める事業である、とみなす習慣にあまりにも慣れすぎている。

 しかし、何かそのような目標がある必要があろうか。科学の存在とその成功を、ある時点における集団の知識の水準からの進化によって説明できないか。

 ある一つの完全に客観的で真実の自然解釈が存在し、科学的業績の正しい尺度は、それがその究極の目標に近づく度合いによって測れる、と考えることは正しいのだろうか。

 『知りたいことへの進化』を『知っていることからの進化』に置き換えればその過程で、多くの問題は消滅するかもしれない」

 今の「発達障害」についても、そう考えればよいのだと思う。


元の記事を読む


↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
健康であるうちに読んで頂きたい記事は、こちら







関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

レザレクト

Author:レザレクト
復活comへようこそ!

プロフィール詳細
ブログ復活comの概略

スポンサーリンク

ブログランキングに参加しています。
1クリックにご協力をお願いいたします。


ビットコイン取引高日本一の仮想通貨取引所 coincheck bitcoin 仮想通貨の概要を読む